こんにちは。
心理カウンセラーの 吉永一叶(よしなが いちか)です。
カウンセリングを共に進めるにあたって
お客様とカウンセラーとの相性はとても大切なポイントです。
私の生い立ちや、悩みを克服してカウンセラーになったきっかけ、
活動していく上での思いを知っていただくことで
少しでも身近に感じていただければ幸いです。
生い立ち~現在にいたるまでのストーリー
・幼少のころ:叔母のもとに生まれたかった
・小学校:テレビが友達、毎日孤食のお留守番
・中学:ひとりぼっちのガリ勉さん
・高校:私は野良猫?寂しさを埋めてくれたのはバイク
・20代:子育てを楽しめない、子供がかわいくない
・30代:不満だらけで身勝手・自己中。私も毒親
・40代:家族がダブルで鬱に・・心理学の扉を開ける
・現在:自分の存在にOKを出せるとともに感謝の気持ち
・目指す理想の未来・・あなたへ
幼少のころ:叔母のもとに生まれたかった
愛知県名古屋市にて両親のもと長女(一人っ子)として生まれる。
幼少の頃から両親の仲が悪く、いつも夫婦喧嘩を目の当たりにしていました。
炊飯器が宙を飛んだり、
冷蔵庫や食器棚がなぎ倒されたりしたことも・・。
怖かったり寂しいのが日常でした。
家庭的で明るい叔母がお母さんだったらよかったのにと思っていました。
小学生時代:テレビが友達、毎日孤食のお留守番
それでも小学校低学年まではよくしゃべる子でした。
4年生ぐらいから、両親が飲食店を経営。
鍵っ子でいつもテレビが友達でした。
うどん屋さんの出前をとって、毎日一人で夕飯を食べました。
お父さんとお母さんはお店で忙しいのだから一人で待っていなければならない。
それが当たり前だと思っていました。
大人たちから「しっかりしてるね、いい子だね」と言われると
寂しくないような平気な顔を装っていました。
本当は、ただただ寂しかった。
でもその状況から抜け出せるなんて思っていませんでした。
どうしたらいいかなんて考えもしなかった。
しかし高学年になった私はある時
やっとの思いで母に訴えたのです。
私:「私は植物じゃない。お金と食べ物さえ与えれば育つんじゃない!」
母:「あら、育ってるじゃない」
・・思いもよらない冷ややかな答えでした。
私:「お店なんか、つぶれちゃえばいいのに。」
・・母からひっぱたかれました。
⇒絶望。もう何も言うまいと思いました。
またある時には、夫婦喧嘩に居合わせた私は、
目が合った父から、八つ当たりなのか
「なんだその目は!」
とすごい形相で怒鳴られました。
普通の顔をしていたつもりなのに。
この頃から、人の目が気になり、視線におびえ、
顔がこわばり、人から顔を見られることが怖くなりました。
当時習っていたエレクトーン教室の先生からは、
「もっと楽しそうに弾いて」
と言われたけど、どうすればいいのか
何が楽しいのかさえわかりませんでした。
暗い性格のせいか、修学旅行のグループ分けで
どのグループにも入れなかった挫折がありました。
中学:ひとりぼっちのガリ勉さん
両親が不仲で母親は家出を繰り返して居たり居なかったり、
家庭は暗くて会話もない状態に。
悩みや身体の不調があっても、親には言えない雰囲気でした。
温かい家庭で大切に育てられている普通の人がうらやましかったです。
学級委員にクラス満場一致で推薦されましたが、
それは人気者だからではなく、
ただ成績が良いだけの、孤独なガリ勉さんだったから。
成績がトップでも、親はまったく無関心。
ただテーブルの上に成績表を置いておくだけで
何も言われませんでした。
そして中学の部活を通じて感じていたことは、
女子は本音と建て前のギャップがすごい。
裏では陰口を言いながらも、
うわべでは仲良くしている人たちが不思議でならなかった。
そんな私は周りに馴染めなくて孤立していました。
高校:私は野良猫?寂しさを埋めてくれたのはバイク
高校1年生の夏、彼氏ができました。
彼氏の家はごく普通の家庭で、
ご両親の
「毎日でも来ていいよ」
という言葉を真に受けて、
本当に毎日ごはんを食べに行くようになりました。
まるで家族のように接してもらいましたが、
心の中の寂しさが消えることはありませんでした。
ある時、彼氏の母親(=のちの姑)が、
エサをもらいにくる野良猫に
私の名前をつけて呼んでいることを知り、
あぁ私、迷惑をかけていたんだ。と気づき
やっぱり私は他人なんだと実感し、
再び強い孤独感に苛まれました。
その頃、彼氏の影響でバイクの免許を取り、
世界が変わりました。
たとえ一人ぼっちの時でも、
走っているときだけは寂しさを忘れられるのです。
そんなバイクにのめりこんでいきました。
風と一体化して美しい景色に出会い、
普通の高校生をしていたら出会うはずのなかった
人たちとバイク仲間になりました。
内向的で人が苦手な私でも、
バイクを通じてなら、不思議と話ができたのです。
一生忘れないような、ツーリングの思い出もできました。
しかし、それと引き換えに成績が急降下し、
成績不振者が呼び出される部屋の常連になりながらも
なんとかギリギリ卒業しました。
クラスメイトからは、
「〇〇さんと話していても、家族の像が見えてこないね。」
と言われていた私。
そう思われるのも無理はありません。
私にとって家族は、いてもいないような存在でした。
バラバラな家族の両親は知らない間に離婚していました。
20代:子育てを楽しめない、子供がかわいくない
高校を出て公務員になった私は、
職場でもなんとなくなじめなくて浮いた存在でした。
高校の時からの彼氏と
授かり婚をして、21歳で退職しました。
しかし未熟でわがままだった私は
母親になっても子育てを楽しめなく、
自由を奪われたような感覚で
子供を心からかわいいとは思えませんでした。
周りは事あるごとに実家に頼っているのに、
私の母は他県にいました。
私には頼れる人がいない・・という不足感。
子供をしばしば託児所に預けて
大型バイクの免許に挑戦しました。
私自身が幸せじゃなければ子供をかわいがれないと思い、
やりたいことを優先していました。
たくさんの時間とお金を使ったけど合格せず断念。
それまで乗っていたバイクも売ってしまい、
乗ることをやめてしまいました。
でもあのとき、合格しなくてよかったのかもしれない。
幸せの意味、自由の意味を勘違いしていました。
ただの自分勝手だった。
結果、子供たちに寂しい思いをさせてしまいました。
幼少期にたくさん愛情をかけてあげなかったことを
今でも後悔しています。
早く結婚してあたたかい家庭を持ちたかったはずなのに、
負の連鎖を繰り返して、うまくいかず・・・離婚。
30代:不満だらけで身勝手・自己中。私も毒親
シングルマザーの時期を経て再婚したものの、
数年後にはまた、再婚相手に不満を持ってしまいました。
嫁姑・義姉との確執もありました。
話を聞いてくれず、仕事に逃げる夫。
私の連れ子には冷たく、
自分の実の子供しか可愛がらない夫に
心を閉ざして仮面夫婦になってしまいました。
そして、離婚。
子供の気持ちは置き去りで、
今思えば私は本当にひどい毒親でした。
両親のようには決してなるまいと思っていたのに・・。
会社では、人の顔色ばかり気にしていい人を演じていた私。
頼まれるとNOが言えず、とりあえず引き受けて抱え込む。
雑談も苦手なので、仕事量だけは人より多めでしたが
なんだか割に合わないなぁ・・と思いながらも、
嫌われるのが怖くて言いたいことを言えませんでした。
子供の学校行事などでお母さんたちが集まる場では
一匹狼のような感じでポツンとしていました。
自由でランダムな場では、どうしたらいいのかわからないのです。
子供が仲良くしているお友達のお母さんとは
かろうじて話ができるけど、人との距離感がつかめず
ママ友付き合いはなかなか広がりませんでした。
40代:家族がダブルで鬱に・・心理学の扉を開ける
40代、実母と二女が同時期に鬱になってしまいました。
母は弱気になって、
「こんなお母さんでごめん」と
何度も電話をかけてきて、しつこいほど謝り続けるのです。
家出ばかりしたあげくに
私を置いて出て行って、自由に生きてきた母。
「一人はいいよ~」
なんて、よく言っていた。
私にむかってその言葉だけは言って欲しくはなかった。
でも母が幸せならと、努めて割り切るようにしていました。
それを今さら謝られても・・・と、
私の心は重たく曇るばかりでした。
母がどれだけ辛かったか、
我慢したか、お店に貢献していたか、
離婚してどれだけ苦労したか、なんて
理解する思いやりが私にはありませんでした。
母はともかく、二女の生き辛さは、
私の育て方に原因があると確信していました。
二女からは暴言、ののしるメールが続き、
自殺をほのめかして散々振り回してくるのに
関わろうとすると、放っといて!と言われる毎日。
謝る母と、ののしる娘。
二人からの連絡が苦痛で、疲れ果ててしまいました。
そんなある日、
二女に付き添って心療内科に行ったとき、
待合室の混み具合と、予約待ちの多さに驚きました。
つらい思い、苦しい症状を抱えている人がこんなにいるんだ、と。
『家族の心のケアを自分ができたらどんなにいいだろう・・』
と思ったのをきっかけに、心理学を学び始めました。
元々、私自身も生きづらさを抱えていたけれど
親のせい、もうどうにもならないと放置していました。
家族のためにと思って選んだ数々の学びでしたが
私自身が、セラピーや心理療法を受けるごとに
心がみるみる癒され、生き方に大きな影響を受けました。
潜在意識の仕組みも知りました。
催眠療法(ヒプノセラピー)を受けたときには、
母の気持ちを、母の中に入って感じるという
人格交代を体験し、私をおなかに宿していたときの
喜びに浸る母の気持ちや、
お店を切り盛りして私を一人で留守番させていた時の気持ちを
内側から感じ、本当は愛されていたのだとわかりました。
あの寂しかった頃の記憶が
少しずつ書き換わっていくのを感じました。
心の在り方、解釈の仕方しだいで世界は変わる。
原点は、
まずは自分自身を大切に、自分に優しくすること。
そして心地よく居ること。
自分が変われば周りも変わり始めることを学びました。
言葉の影響力の大きさを実感し、
ものの見方がどんどん変わっていきました。
私に足りなかったのは、
我が子への愛のこもった言葉がけと笑顔。
存在をまるごと認める愛情表現。
そして、すべての人や事への感謝の気持ち。
子育て前に、それを知っていたら・・・!!
もっと早く知りたかった・・・!!
と強く思いました。
でも、今からでも遅くはない。
これからの人生を、子供たちとともに幸せな時間を紡いでいこう。
そう決心しました。
現在:自分の存在にOKを出せるとともに感謝の気持ち
機能不全家族で育ち、アダルトチルドレンだった私は
自分の意思がなく、人の顔色ばかり見て
自分の本当の気持ちすら、わからなくなっていました。
自分が大嫌いで、人にも心を開けなくて
被害者意識と罪悪感、劣等感・・
マイナス感情ばかりが
いつも影のようにつきまとっていました。
あのまま心理学や心理療法を知らず、
カウンセリングも受けないままでいたら・・・
どんな環境に身を置いたとしても、
周りの人や環境のせいにして
今でもきっと、生きづらさを抱えたままだったでしょう。
そう思うと、家族の問題がきっかけではありましたが
結果的に私自身が救われていたことに気づかされます。
どんな私も私なんだと認め、ありのままの自分の存在や
自分の気持ちに、まずは否定せずOKを出せるようになるとともに
感謝の気持ちをたくさん感じられる心へと好転しました。
自身の過去の経験や悩みから得た
学びや気づきによって、
同じように生きづらさを抱える
アダルトチルドレン、愛着障害、HSPの方の心に灯りをともしたい。
元気を取り戻して自分を好きになってほしい、
笑顔になってもらうサポートをしたい。
その思いから、
「メンタルサポートこころびより」を開設し、現在に至ります。
目指す理想の未来・・あなたへ
振り返れば、
私が悩み続けた時間は四半世紀・・それ以上かもしれません。
それは、いつまでとも知れず、
出口も見えないトンネルのようでした。
今の私があるのは、その長いトンネルを抜けられたから。
それまでの道のりは無駄ではないと今は思えるけど、
子どもに与えてしまった心の傷、
過ぎ去った時間は、もう戻すことはできません。
あなたには、そんなに長い時間を費やして遠回りしてほしくはありません。
自分を幸せにできるのは自分です。
そしてあなたが幸せになることで、
いつしか周りにもそれが伝染していきます。
遅すぎることはありません。
少しの勇気で、人生を変える扉は開けられます!!
私が目指す未来のビジョンは・・
『一人一人が自分の存在を誇りに思い、
個性や気持ちを大切にしながら人とのつながりの中で
しなやかな心で生きられる世の中を目指していきたい。』
あなたらしく、心地よい選択ができる未来に好転するべく
私は全力であなたのサポートをさせていただきます。